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◆しかまの里のチャレンジ◆

看取りの家「なごみの里」代表
柴田久美子さんインタビュー 

(認知症ケアの新地に種まく情報誌「りんくる」 2007年1月発行<vol.12>掲載)



■柴田久美子さんプロフィール

1952年、島根県出雲市生まれ。
1973年、日本マクドナルド株式会社に入社し、秘書、ライセンス店店長などを経験。
1989年、独立し、東京と福岡で洋食レストランを自営。
1993年、福岡県の特別養護老人ホームにて、介護職として勤務。
1995年、同県の有料老人ホームにて、介護職として勤務。
1998年、隠岐諸島知夫里島(島根県隠岐郡知夫村)へ移住。同村の社会福祉協議会にて、ホームヘルパーとして勤務。
2002年、NPO法人看取りの家「なごみの里」設立。
現在、人口740人、高齢化率41%の離島、知夫里島で終末期のお年寄りとともに暮らす。

 

「どうか、大切な人の最期の瞬間、側にいて手を握ってあげてください。大切な人の魂が、あなたの中で永遠に生き続けられるように――」
隠岐諸島の小さな島にある「なごみの里」。
そこには、終末期のお年寄りと毎日を大切に生きる暮らしがある。

「なごみの里」の収入は、訪問介護事業による介護報酬と柴田さんの講演料、出版物の印税のみ。
職員6名と有償ボランティア10名の給料を支払うと、経営は火の車だ。
しかし、全国にいる「なごみの里」の支援者から、毎日のように米や野菜が届く。
「この活動を応援して下さる人がいる。それだけ「なごみの里」が期待されているのだと、しっかりと受け止めてやっていきたいと思います」

■「なごみの里」ホームページはこちらです。

***もともとファーストフード店の社員だったそうですが、なぜ介護の仕事を志すようになったのですか

私は専門学校を卒業後、マクドナルド社で社長秘書や店長として15年間働いたのち、独立して東京と福岡でレストランを経営していました。しかし、レストランの経営がうまくいかず、借金もふくらんでしまいました。私には病気の夫がいて、彼の入院費も払えず、将来について非常に悩んでいました。そんなある晩、ベッドに横になっていると、「愛こそが生きる意味だ」という声が聴こえたのです。とてもはっきりと聴こえたので、本当に驚きました。それで私は、目先のことばかりにとらわれて生きている自分に気づき、これからは愛という言葉のとおりに生きてみようと決意しました。そして、翌日にはレストランを閉めたのです。先のことはまったく決めていませんでしたが、近所にあった特養の施設長さんが、「柴田さん、することがないだろうからうちへ来たら?」と言ってくださったんです。その特養へは、毎年クリスマスイブの売り上げを寄付していたので、施設長さんと顔なじみでした。私はお年寄りが大好きだったので、よし働いてみようと思いました。それが介護の仕事を始めたきっかけです。

介護の仕事をしてみると、「ありがとう」と幼い私の手を握って亡くなっていった父のことを思い出し、父のように自宅で家族に囲まれながら亡くなる方のお手伝いをしたい、その時の感動を大切に生きていきたいと強く思うようになりました。そして在宅死亡率が75%という知夫里島を知り、胸を熱くしてこの島にやってきたのです。

「なごみの里」は、島根県松江市の港からフェリーで約2時間の離島、知夫里島にあります。島には診療所が1つあるだけで、病院や老人ホームはありません。そのため、医療や介護が必要になったお年寄りは、島外の施設へ移っていきます。私の尊敬するマザーテレサは、「人生の99%が不幸であったとしても、最期の1%が幸せだとしたら、その人生は幸せなものに変わるでしょう」と言っています。しかし、生まれ育った場所で死にたいと願っても、さまざまな事情からその願いを叶えられずに亡くなっていくお年寄りがいます。「なごみの里」では、そんなお年寄りの最期をお手伝いしています。

「なごみの里」に入所しているお年寄りは、お子さんがいなかったり病気だったりして家族の介護力がなく、1人で暮らしている寝たきりの方です。知夫里島の島民に優先的に入所していただいていますが、周辺の島の方も受け容れています。そして、どこで、誰に看取られて、どんなふうに死にたいかということをお聞きし、そのお手伝いをします。ご自宅で最期を迎えたいとおっしゃる方はご自宅へお連れしますし、希望がなければ医師も呼びません。最期のお手伝いをさせていただくとなると、お年寄りとの普段の関わりがとても大切になります。私に本音を語っていただかないといけないし、身を任せてもらえるような信頼関係をつくらないと、“最期の1%の幸せ”はお手伝いできないと思っています。

***「なごみの里」を立ち上げるまでには、いろいろご苦労があったのではないでしょうか

島の社会福祉協議会でホームヘルパーとして働いていた頃、「週末期の母を家で看取りたいから手伝ってほしい」と家族から要望を受けました。医師を交えて何度も検討を重ねましたが、業務範囲内では、24時間体制で付き添う方法をどうしても見い出すことができませんでした。そんな頼りにならない私たちに対し、息子さんは、「もういいです。母は僕たちだけで看取ります」と毅然とした態度でおっしゃったのです。親族の誰かが必ずお母様の側にいることができるようにシフトを組み、無事にお看取りをされました。この時私は、親族で看取るということをあたりまえに続けてきたこの島の風土がとても素敵に思えて、これぞ私が理想とする、幸せな最期だと確信しました。

しかし、島に来て4年目のことです。この島で生まれ育った100歳の女性が、寝たきりになったために広島に住むお孫さんのもとへ連れて行かれることになりました。広島へ向かう当日、その方が「柴田さん、後世だからわしをここにおいて。わしはここで死にたい!」と、私の足にしがみついてきたのです。どうにもできない私は、その指を1本ずつほどこうとしました。しかし、右手の指をほどく隙に左手がからまり、左手の指をほどく隙に右手でつかまれ、なかなか振りほどくことができません。最後には、その方を力いっぱい振り切って部屋を飛び出していました。そして、トイレに駆け込み号泣しました。その時の涙は、別れを惜しむ涙ではありません。お年寄りの最期をお手伝いするためにここへ来たのに、私は何もできない――。そう自分を責める、悔し涙でした。

この出来事がきっかけとなり、「なごみの里」の設立を決心しました。しかし、知夫里島は財政難と職員不足により、島民の10年来の希望である特養建設が断念されたばかりです。そんな時に女の私が、たった1人で「なごみの里」を立ち上げると言い出したわけです。寝たきりの方を預かるという点では特養と同じですから、そんなことができるわけがない、何か裏があるんじゃないかと方々から大反対を受けました。そんな状態でしたので、開所から数か月、お年寄りは誰もやってきませんでした。しかし、あるお年寄りが入所されてから、風向きが徐々に変わっていったのです。その方からは暴力も受けましたが、私は体を張って、なんとか向き合おうと必死に努力しました。最後は私に心を開いてくださり、入所から半年後にお看取りをしました。そんな「なごみの里」の様子を見ておられたのでしょうか、その後また1人、お年寄りを受け入れることになったのです。そうしてこれまでに5名の方をお看取りし、今は4名のお年寄りが暮らしています。

***死を看取るということについて、柴田さんの思いをお聞かせください

「命の教育」と盛んにいわれますが、子どもたちに命を教えることは死を見せることです。足を必死でさすって温めても冷たくなっていく、死ぬというのはこういうことだと体験することです。でもそれで終わりじゃないよ、あなたの中で生き続けるよ、ということを家庭の中で伝えていくべきなんです。

私は、お看取りをするたびに、自身の中にある物事を感じる力が変わっていく気がします。いつも私は、看取りは美学だと言うんですが、看取りのたびに私の心の中にその方の魂が落ちてくるというか、重なっていくんですね。お年寄りの心の安らぎが、私の心に響くんでしょうか。ですから、毎日いろいろなことに感動しています。ささいなことなんですが、今朝は窓を開けて山から海にかかる二重の虹を見ていました。すると、お年寄りが「虹が出たから、きっといい日になるね。みんなにもこの幸せが届くといいね」っておっしゃったのがすごくうれしくて。とるに足らないことかもしれないですが、私やお年寄りにとっては、今日も生きて虹を見れたということがとても大きな喜びなんです。生きてるってありがたいなって。お年寄りと一緒に生きて喜びを共有できることが私の幸せなんです。

今の日本では、多くの方が病院で機械に囲まれ、1人で亡くなっていきます。しかし、抱きしめて見送って、死を体で感じるということをしてほしい。それが今、日本人がすべきことだと思います。そのために私はこれからも、この小さな島でやっていることを、看取りの尊さとともに全国に伝えていきたいと思っています。


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